2018年4月20日(金)
『シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」』ヨハネによる福音書21章3節
「ペテロよ。主イエスがよみがえったのだ。
それでもなお昔の生活に戻るというのか。
君に網を捨てさせ、人間をすなどる者に召してくださった主を忘れたのか」。
ペテロが疲れ果てて首を横に振るのが、目に浮かびます。
「いや、あのころはよかった。
が、私は主のために有益な者ではないことがはっきりした。
私たち弟子は、何にもわかっていなかったのだ。
十字架ですべては終ったと思ったのだ。
ところがあれは贖いのみわざだった。
復活の主がそう教えてくださった。
しかし…、私たちはなんと愚かであることか。
だからあの時も…、肝心の時に、主を拒絶してしまった」。
続いてヨハネが口をはさんだでしょう。
「神の国が来たと考えるのは、すばらしいことだ。
が、私たちには勇気がない。
私たちはあの方にふさわしい人間ではない」。
全員がつまずき、さらにペテロが言います。
イエスのことを伝えるためには、私たちよりもましな頭がなければならない。
しかも、もっとしっかりとした性格でなければならない。
私たちはあきらめたほうがよい」。
イエスの救いを知り、それを信じてもいながら、それなのに、自分への確信を失っている。
こうした状態があるとすれば、それは衝撃的なことです。
そして「自分には難しすぎる。やめておこう」というのです。
ペテロは投げ出しました。
が、イエスはそうなさいません。
数行先にあるとおりです。
すなわち、私たちは自分への完全な絶望を一度はくぐらなければならず、そうした後に初めて、求めずにただ与える「イエスの恵み」が何であるのかを知るのです。
また、自分に期待できず、ただすべての望みを救い主におくという状態の中で、「信じる」とは何であるのかを知るようになります。
「私には持ち行くものはない。
主よ、あなたこそ、私のすべてです」。アーメン
God Bless You!!
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