2018年4月2日(月)
『すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがしてその上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。』マタイによる福音書28章2節~3節
イエスは生きておられる。
神の御子がよみがえった。
それはなんと理解しがたい、ありそうもないことではないでしょうか。
ところが、どうしたことか、喜びはイエスを信じる者たちの心に満ち溢れました。
しかも、それが彼らにも理解し尽くせないことであるのは、変わりがありません。
そこに力ある御使いが現れます。
神が、御使いに、「さあ、見える世界へ突入しなさい。
御子の墓石を取りのけて、彼のために道を開きなさい。
いのちの時が来たのです」と言って、任務をお与えになったとき、御使いの心は喜びおどったことでしょう。
私には、世界に突入しながら楽しげに独りごとを言う御使いの姿が、目に浮かびます。
「見よ。
墓を守る兵士がいようが、問題ではない。
総督ピラトの決定を無視すれば、大ローマがどんな対抗策を打ち出すか、前もって問い合わせもしなかった。
祭司や教会に対して、この復活が宗教人生の助けになるのかどうかを、尋ねることもしなかった。
賢者や学者に、自分の世界観に復活をどう組み込むつもりなのかを、聞きもしなかった。
神がなさることはといえば、すでに実現している事実に、この世界を直面させるだけだ。
それは大いなる栄光の神になんとふさわしいことか」。
御使いはこのようなことを考えたでしょう。
そして、まさしく神は、すでに実現しているひとつの事実、すなわちイエスの復活の事実の前に、世界を置かれます。
兵士たちは無力に立ち尽くし、ピラトは当惑し、祭司たちは途方に暮れます。
が、弟子たちは「主を見て喜び」ました。
主よ。
あなたを礼拝し、あなたを喜びます。アーメン
God Bless You!!
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