2018年3月9日(金)の手紙

2018年3月9日(金)


『それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。』マタイによる福音書27章29節


15世紀の画家ヒエロニムス・ボスに『荊冠のキリスト』という一枚の印象深い絵があります。
恐ろしい顔をした人々に囲まれてイエスが立たれ、ひとりの若者が、防具に固めた両手でいばらの冠をイエスの頭上に差し出しています。

主イエスは、私たちの心を打つ、静かな落ち着きの表情で、この恐ろしい冠を受けようとなさっています。
そこには憐みが溢れている。
この絵を見る人はだれもが、そう悟ります。
救い主は、この残忍な人たちのために… そして私のために、冠をお受けになったのです。

「いま、あなたが忍ぶのはすべてわが重荷。
私自身が負うべきところ、あなたが担われた…」。(パウル・ゲルハルト)

この野蛮な人たちは自分のしていることを悟っていませんが、実は彼らはイエスに、神の愛の国の王とする戴冠式を行ったのでした。

王がいばらの冠をかぶせられる。
なんという不思議な王国でしょうか。
王自らが民のひとりひとりを気にかける王国など、どこにあるでしょうか。
ここには、お役所の窓口はなく、だれもが王に直接近づくことができるのです。

こんな国に住むことができたならば。

この愛の国の検問所は、私たちに向かって自由に開かれています。
もちろん、鉄道や自動車で乗り込むところではありません。
心の小部屋をこの王に完全に明け渡すならば、私たちは検問所を通ることができます。

証明書が必要ですか。
必要です。
が、それはスタンプやビザの類ではなく、神との平和を慕い求める、砕かれた、悔い改めの備えのある心です。

荊冠の王よ。血に染まったみ姿は恐ろしいですが、それは私たちのたましいを生き返らせます。アーメン

God Bless You!!


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