2018年3月5日(月)の手紙

2018年3月5日(月)


『ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりした…。』ルカによる福音書23章11節


いったい、主イエスはなぜ、ご自分を侮辱されるがままに任せられたのか、と私は時々考えます。
今日でも主がそれを許しておられるとは。

この世は、どんなに気が触れたような人をも粗末に扱うことはしません。
ところが「イエス」という名が語られるとたちまち、多くの顔があざけりにゆがむのです。
どうしてでしょうか。

それは、イエスの主張とその外見との間に大きな落差があるからです。
イエスは、ご自分について途方もないことを主張なさいました。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」。
まるで自分の資産は倉庫に納まり切らないとでも言わんばかりです。

また、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
…休ませてあげます」。

そうおっしゃりながら、主は無一物で民衆と向かい合われました。
また、主はこうも言われます。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」。
けれども世界は彼なしに結構やっていくのです。

イエスは意味深い多くのことばで、「父」がご自分を愛しておられると語られましたが、十字架上では「わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。
長老たちがあざけり、ののしるのも不思議ではありませんでした。
侮辱の原因はこの落差にありました。

しかし突然、私たちの心に一筋の光がさし込みます。
それこそが信仰の特質です。
イエスのみことばは真実そのもの。

そうです。
イエスは確かに力ある方です。
イエスこそは慰めを与えうる方です。
このお方なしに私たちのすべてのわざは空しく、何ひとつ実を結びません。
す。

このお方こそ生ける神のひとり子です。
ですからイエスに対しては、侮辱あるのみ。
それとも聖霊による照明あるのみ。
そのどちらかです。

御父よ。
私たちを見えないままにせず、イエスを知るため、聖霊の光をお与えください。アーメン

God Bless You!!


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