2018年3月26日(月)の手紙

2018年3月26日(月)


『彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし…』イザヤ書53章5節


現代社会では、このみことばは奇妙に聞こえることでしょう。
今日の人々には、このようなことばへの「アンテナ」がないからです。

預言者イザヤは何を言おうとしたのでしょうか。
十字架のキリスト、すなわち、いばらの冠をかぶって死につつある方を指しながら、この事件は私たちと深い関係があると、イザヤは主張しているのです。

ところが、今日の人々は肩をすくめて「関係があるとは思えない」と言います。

現代人は錯覚しています。
自分には、漠然たる恐れがあり、内的な不安があり、うつろな心しかないことを、私たちはみな、よく知っているのです。

静かに考えるとき、私たちは気がつきます。
すなわちこの不安にはふたつの側面があるのです。
こうありたいという願いとはうらはらに、罪にけがれた歩みをする自分。
まず、それに気がつきます。

私たちは「邪悪な良心」をかかえているのです。
これが一面。
もう一面は…。
いつの日か、それらすべての支払いをしなければならない、と知る不安です。

ある人が私に向かって、不幸な結婚をこぼしたあとで、突然、何かを悟ったかのように言いました。
「昔の不始末の支払いをさせられているのだ」。

さてこの不安が今日の人々を苦しめます。
そして、この不安の世に向かって、福音は語りかけるのです。

「神はそのひとり子をお与えになるほどに、無条件に無制限に愛してくださった。
十字架についた方が私たちすべてのために支払ってくださった。
支払いは済んだ」。

この世で、自分の咎と平安のない心とを捨て去ることができるとは、それは私たちと関係があることなのでしょうか。
そうです。
十字架上の神の御子は今もこう叫んでおられます。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」と。

主よ。
安息のない私たちの良心の救いは、今もあなたにあります。感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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