2018年3月24日(土)の手紙

2018年3月24日(土)


『彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。』ヨハネによる福音書19章40節


これは印象深い光景です。
エルサレムの町の名士がふたり、イエスのなきがらを十字架から取り降ろし、それに高価な香料を塗り、白い亜麻布に包みます。
なんとかして主への愛を示し、主に仕えたいと願った人たちです。

そのときの彼らは、今の私たちが知っていることを、まだまったく知りませんでした。
私たちがイエスのためにすることが、やがては主が私たちに対してしてくださる大いなる愛によって凌駕され、おおい尽くされ、完全に追い抜かれるという事実を、彼らは知らなかったのです。

彼らは主のなきがらを屈辱の場から運び出しました。
主が犯罪者とともに葬られるのは、彼らには耐え難かったのです。
しかしイエスは、私たちをこそ屈辱から引き出すために、来て死なれたのです。
自分ではまともなつもりでいる私たちの生涯は、往々にして大いに破廉恥なものです。

神の光のもとに自分を置くならば、それは明らかになります。
イエスは私たちをそこから連れ出して、神の子どもの立場にまで引き上げてくださいます。

ふたりは白い亜麻布にイエスを包みました。
が、イエスは、罪にけがれた私たちを主の義なる白い亜麻布に包むために、来て死なれたのです。

ふたりは主のなきがらに高価な香油を塗りました。
が、イエスは私たちに聖霊を与えるために、来て死なれたのです。
聖霊は香りの高いバラ油にたとえられます。

私たちの住まいが、争いや、利己心や、さまざまな悪の死臭に満ちることはないでしょうか。
聖霊は神のかぐわしい香りを放たれます。
そしてイエスは喜んで私たちにその聖霊をくださるのです。

私たちが主のために労し、主への愛を示すのは麗しいことです。
が、主の大いなる愛のうちに、自分を置くことのほうが、もっと大切です。

愛なる方よ。
私の身をゆだねます。
とこしえにあなたのものとなるために。アーメン

God Bless You!!


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