2018年3月10日(土)の手紙

2018年3月10日(土)


『それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。』ヨハネによる福音書19章5節


シュヴァーベン地方の高原には、深い深い石灰岩の裂け目がここかしこにあります。
聖書もまた、そのような書物です。

ひとつの事件のただ中で突然、予想もしない深い裂け目に立たされることがたびたびあるのです。

きょうのみことばは、まさにそのような箇所です。
凶暴な鞭打ちの辱しめを受け、面白半分の王衣をおし着せられて、イエスは荒れ狂う民衆の前に立っておられます。

ローマの総督はイエスを見ました。
その姿に彼は衝撃を受け、大声で叫びます。
「見よ、なんという人か」。

ルターはこのように訳して、今やピラトがこの哀れなイエスへの民衆の同情を呼び覚まそうとするようすを、暗示しました。
が、ピラトのことばには、それ以上の意味がありました。

ギリシャ語をそのまま訳すと、「見よ。人だ」となります。
ピラトのことばは驚きと恐れを表しました。
彼はこれまでにも多くの人々に接してきました。
が、いつも彼らを鼻であしらってきたのです。
見栄っ張りの孔雀、野蛮な虎、鈍重な象、うるさい鶏、下卑たジャッカル。
そんなふうにしか考えませんでした。

が、いま初めてひとりの人を見ます。
愚弄されるイエスのうちに、ピラトは本当の人間を見たのです。
神の思い描かれた人間そのものを見たのです。

「見よ。人だ」。

これは大切なことです。
イエスを語らずして、人間性や人道を語ることはできません。

「見よ。人だ」。

ヘブル語では「人」とは「アダム」でもあります。
そして新約聖書はイエスを「第二のアダム」と呼んでいます。
この方こそは、神がもう一度最初からやり直しをされた「人」なのです。

主よ。
まことの人となられたあなたが、私たちを造り変えて、あなたに似る者としてください。アーメン

God Bless You!!


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