2018年2月8日(木)の手紙

2018年2月8日(木)


『「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。』ルカによる福音書18章41節


祈りとは、自分の願いを主にはっきりと伝えることです。
私たちには、主に伝えていない願いが山ほどあります。
それらが到底、主のみこころにかなわないと、知りすぎるほどに知っているからです。

願いや望みは、それを祈りにおいて主の前に持ち出せるかどうかを考えるならば、ほとんどが整理できるものです。
邪悪で、聖くない、自己中心の願いは、祈りにふさわしくないとわかります。
そうすれば、それらを私たちの祈りから除き去ればよいのです。
生活からも切り捨てるのです。

そのような、ふさわしくない悪しき願望は、イエスの十字架のもとに持って行きましょう。
それらを罪と認め、主イエスがご自分の死でそれらを処分してくださるよう、祈りましょう。

ほかのどんなことをも、祈りにおいて、はっきりと具体的に主に持ち出すことができます。
そのたびに主は、私たちの願いや望みをよく見分けて、みこころにかなわないものや、私たちに有害なものを、そっと脇へどけてくださるのです。

「見えるようになることです」。
エリコの城門の前で主イエスにお会いした目の見えない物乞いは、そう願いました。
この人はあれもこれもとは言いません。
また、多弁を用いません。
単刀直入に自分の願いを述べるのです。

それは大きな願いでした。
が、願いの大きさはまた、イエスの偉大さ、その御力への信頼の大きさを表します。

目の見えない物ごいは、知られざる神に向かって不確かな祈りをしたのではありません。
神がイエスにおいて私たちのもとに来られたことを認め、信じたので、それゆえに、彼は信仰とまったき信頼をもって祈ることができたのです。

主よ。
私たちに正しく祈ることを教えてください。アーメン

God Bless You!!


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