2018年2月3日(土)の手紙

2018年2月3日(土)


『イエスは立ち止まって…。』ルカによる福音書18章40節


たったひとつの経験が、あらゆる見解をくつがえすことがあります。
祈りについても 、多くが語られ書かれましたが、ダビデ王は詩篇34篇で、あらゆる見解を、自分の経験に対比させます。

「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。」

これは彼自身の経験であり、また、幾千年にもわたる無数の人々の、祈りの経験でもありました。

エリコの城門近くの路上に座り、物ごいをしていた目の見えない人も、同じ経験をしたのです。
主イエスがお通りになると、物ごいはたちまち叫び出しました。
「救い主、イエスよ。私を憐んでください」。

そのままイエスが通り過ぎてしまわれても、不思議ではありませんでした。
大群衆に囲まれている上に、主に話しかける人々がたくさんいたからです。
願いを訴える人もいたでしょう。
そして、ほかにも多くの人々が主を見たい、声を聞きたいと群がっていたのです。

いったいこんな中でイエスが、道端で叫ぶ物ごいのしわがれ声に呼び止められるということがあるでしょうか。
おそらく大群衆の中には、もっと影響力のある人々も混じっていたでしょう。
イエスのご計画のためには、哀れな物ごいを相手にするよりもこういう人たちに集中した方が効果的だったのではないでしょうか。

けれども主は、そうはなさいません。「立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた」のです。

だれかが物ごいのもとへと走ります。
その間、主は立ち止まっておられました。

これは私たちにとってもすばらしい約束です。
私たちは祈ることができます。
主に叫び求めることができます。
主は聞いてくださいます。
主は悩む者のそばにおられます。
叫んで無駄だった人はいないのです。

「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」。
こう告白する人たちの中に、私たちも加わりましょう。

主よ。
開かれているあなたの耳に感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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