2018年2月10日(土)の手紙

2018年2月10日(土)


『イエスが彼に、「見えるようになれ…。」…彼はたちどころに目が見えるようになり…。』ルカによる福音書18章42節~43節


エリコの道端に貧しげな男が座っています。
彼は目が見えません。
しかもその上、物ごいをしています。
私たちはこの哀れな男と同じです。

私たちも物ごいです。
世に向かって絶え間なく、もっと多くの喜びを与えよと、物ごいをするのです。
慰めも欲しいと願います。

けれども、そもそも世自体が貧しいのです。
それでいて、どうして私たちを満たせるでしょうか。

一番の金持ちといわれる人たちでさえ、イエスが関与してくださらなければ、哀れな徒食者にすぎません。
主イエスこそが私たちを欠乏から救い出すお方です。
イエスは私たちの心に、慰めと喜びと自由と望みを与えてくださいます。

そうです。
イエスなき生涯は、この物ごいと同じです。
私たちも目が見えません。
男は暗黒のとりこでしたが、私たちもまた、闇に閉じ込められています。
イエスにおいて「世の光」が来られたのに、私たちの目は見えず、主を認めません。
目を開いてくださるのは、主ご自身です。

自分の失われたさまを認めるときに、私たちもエリコのこの人のように叫ぶことができます。
「イエスよ、救い主よ。私を憐んでください」。

すると主は聞いてくださいます。
それは今日でも変わりません。
「見えるようになれ」と主は言われます。

目が開かれたときに、この人が真っ先に見たもの、それは彼の救い主、主イエスの御顔でした。
私たちの目が開かれるときにも、全く同じことが起こります。
光と、いのちと、主ご自身とを与えるために神が遣わされた主を、私たちは礼拝するのです

主よ。
役立つ目をお与えください。
私の目に触れてください。
かの日になって光が見えないならば、それほどの災いはありません。アーメン

God Bless You!!


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