2018年12月7日(金)
『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り…。』ゼカリヤ書9章9節
街角の広告柱の傍らで考えこんだことがあります。
そこにはコンサート、ダンスパーティー、ウィンタースポーツ、洗濯機、たばこなどなど、ありとあらゆるポスターが貼ってありました。
私は思いました。
「人々はアドベント(待降節)のことなど、気にもかけていないのだ。
『あなたの王があなたのところに来られる』という知らせが溢れているのに、人々にはそれをキャッチするアンテナがないのだろうか」。
「戸よ、上がれ。門よ、開け。栄光の王が来られる。
王の王なる方が、救いといのち携えて。
それゆえ叫べ、喜び歌え」。
しかし人間は、そうたやすくは感動しません。
天の御国の王が来られる。
「それがどうした」と言うのです。
「それがどうした」。
言い換えれば、「そうであれば、何をしろというのか」です。
これに対して、きょうのみことばが何も答えないのは不思議なことです。
「見よ。あなたの王が来られる。
この方は正しい方、救いを賜る方」とあるだけです。
それでおしまいです。
それ以上は、何も言いません。
「いかにして、あなたに向かうべき。
いかにして、あなたにお会いすべき」と、待降の賛美に歌ったバウル・ゲルハルトも、同じように当惑したかのようです。
が、彼は答えを知っていました。
私たちもそれをはっきりと知りたいものです。
答えは、ただイエスを迎えることです。
王を、救い主を迎えることです。
教理や議論止まりであってはなりません。
主は実際に私たちのところに来られるのです。
この方を迎えましょう。
私たちにはこの方が必要です。
哲学者ハーマン(1730-88)は言いました。
「イエスなしに生きるのならば、頭と心なしに生きるほうがましだ。」。
それゆえ私たちは「それがどうした」と言わない者になりましょう。
そして次のように祈りましょう。
「わが心に、あなたへの道をお造りください」。アーメン
God Bless You!!
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