2018年12月27日(木)の手紙

2018年12月27日(木)


『宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』ルカによる福音書2章7節


神が人となられた所は、まことにみすぼらしい部屋であったに違いありません。

このみどりごが神の御子だと知る人には、その貧しさは耐え難いものでした。
パウル・ゲルハルトは歌いました。

「ああ、藁や干し草はひどすぎる。
ビロードと絹と紫であるべき。
このみどりごをお入れするには」。

まさにこの神の御子の全き「自己放棄」こそが、彼のうちにある最も美しいものであることを、私たちはいつも新しく学ばなければなりません。

聖書は言います。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。
それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

しかし、この馬小屋は惨めな部屋であるだけではなく、惨めな者たちの部屋でもあります。

ある現代の詩人が書いています。
「そもそもこの世に贖う価値があるのかと、何よりもまず問うべきだ。
問われたならば答えねば。
例外は喘息持ちのおばあさん、あのあばら家であえいでいる。
もう一人、両目の見えないこの男。
…もう一人、だれの期待も集めずに、ひそかに首をくくろうと、絶望しているあの青年。

…さて我々は、本年は、興味関心不在につき、受肉降誕は勝手ながら休業と戸口に看板を出すがよい」。

とんでもないことです。
そんな看板を出すことはありません。

「喘息持ちのおばあさん」、「絶望している青年」、そして惨めな心、重荷を負う良心、自分を赦せない人々、神への恐れを抱く人々、これらすべての人々のために、神は人となられたのです。

主よ。
私たちは惨めな者たちです。
羊飼いたちとともに、ぬかずいてあなたを礼拝します。アーメン

God Bless You!!


a:103 t:1 y:0