2018年12月23日(日)
『ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。』イザヤ書55章1節
あるクリスマスの午後、すばらしく楽しい経験をしました。
その日、私は収容施設でのクリスマスの説教を頼まれていました。
そこには、世間から疎外された人々、ホームレスといわれるような人々が住んでいます。
クリスマスの音楽を演奏するために、私の子どもたちも一緒に、バイオリンと笛を持って出かけました。
さて施設に着くと、きれいに飾ったホールに、責任者がひとりで立っていました。
彼は困惑の面持ちで切り出しました。
「実は今、別の団体がクリスマスのお祝い会をしてくれているのです。
でも間もなくそちらも終わりますから」。
ずいぶんと待たされた後、ようやく人々が集まって来ました。
みんな小さな包みを大事そうに抱えて、くたびれた顔をしています。
そして次のお祝いを頂戴するまで、じっとがまんして座るのでした。
中の一人が、あとで説明してくれました。
「そうだね、ここでは何でもただだからね。
もらえるものは何でももらうのさ」。
私は吹き出しました。
が、それから考えたのです。
そうだ、この人たちを見習わなければならない。
大いなる神は私たちにクリスマスの祝いを準備してくださった。
ご自分の御子をお与えくださった。
御子を通して、いのち、平和、赦し、力、慰め、望み、愛、喜び、そのほか、私たちが注文する必要がないほどに、多くのものをくださった。
しかもみなただで、お金はいらないのだ」。
さて私たちはここの人々のように、できるだけたくさん貰うために、駆け出すべきではないでしょうか。
クリスマスの夜の羊飼いたちは、駆け出したのです。
さて私たちは…。
できるだけ多くもらおうではありませんか。
「ああ、あなたを捕らえたいと願うほどに、わが心が深い淵であり、わがたましいが広い海でありますよう」。アーメン
God Bless You!!
a:104 t:1 y:0