2018年12月17日(月)
『すると、群衆のうちの大ぜいの者が、自分の上着を道に敷き…。』マタイによる福音書21章8節
「見よ。あなたの王がお見えになる」。
その知らせがエルサレムの城門に響き渡りました。
人々はそれを聞きました。
それこそはまさに、喜び叫ぶ「アドベント」の日でした。
「大ぜいの者が上着を道に敷」きました。
が、彼らは自分のしていることの本当の意味をまだ悟ってはいません。
私たちはそれをよく知りましょう。
数日後に主イエスが十字架の上で死なれたとき、主は聖書が「神の前での義」と呼ぶものを、私たちのために勝ち取ってくださいました。
聖書は、神の前での義をしばしば衣に譬えます。
例えば「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ…る」とあります。
神の聖霊によって目が開かれない限り、私たち自身の義の衣でさえ、なんと良さそうに見えることでしょうか。
けれども、ひとたび生ける神の光によって目が開かれるならば、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです」と叫ばざるを得ないのです。
そうです。
私たちの生涯という衣、この罪の衣を、主の前で地面に広げましょう。
すると、私たち自身の義などは、もはや何の価値もないものだとわかります。
もちろん、それをすることは私たちにとって難しいことです。
私たちはむしろ自分を聖いとし、義としたいものです。
それゆえ、「善意からしたことなのだから」とか、「自分には悪いことは何もない」とか、言いわけをするのです。
しかし、それらはみな空しい骨折りです。
このようにしてついに私たちは、すべては遅すぎるということを神が明らかになさるまで、時を延ばすのでしょうか。
自分の義を神の前に放棄すること、それはなんと私たちを自由にすることでしょうか。
主よ。
私たち自身の義という衣を、あなたの足の下に踏みつけてください。アーメン
God Bless You!!
a:99 t:1 y:0