2018年11月27日(火)
『悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にも泰然としている。』箴言14章32節
「死は重要ではない。重要なのは生きることだ」。
今日、この類のことばがよく語られます。
それがまた、いかにももっともらしく聞こえるのです。
しかし、本当にそうですか。
いいえ、間違いです。
死は途方もなく恐ろしいのです。
いったいなぜですか。
聖書は言います。
「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と。
不信仰の人でさえ、死を前にしては、自分はもう神から逃げ出せない、神の前に立たなければならないと観念します。
まるで神がそれぞれの心に、さばきの知識を植え付けられたかのようです。
死は実に大問題です。
自分がさばかれなければならないという真理を、人は一生、放りっぱなしにしておくこともできます。
いまいましい公文書を引き出しに放り込んでおくように。
しかし、いよいよ死ぬときが来ると、そうはいきません。
ルターは言いました。
「だれでもみな、ただひとりで死ななければならない。
そのとき、私はあなたとともにいないし、あなたも私とともにいない。
耳には互いの叫びが聞こえる。
それなのに、だれもがひとりで行くことになる」。
死はまことに恐るべきものです。
さて聖書は「正しい者は、自分の死の中にも泰然としている」と言います。
何と勇ましいことでしょう。
それゆえにこそ人は、「正しい者」でありたいと願うのです。
そして私たちはそうなることができます。
私たち自身の正しさはもちろん不充分ですが、私たちは、イエスが私たちのために十字架に死んで、私たちのために獲得してくださった義を、信仰をもって受けることが許されています。
イエスが私に代わって私の死を死なれたので、私はいのちへと進むことができるのです。
「主よ。
あなたの死の苦しみを、私に無駄とならせないでください」。アーメン
God Bless You!!
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