2018年11月14日(水)の手紙

2018年11月14日(水)


『聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。』ヘブル人への手紙12章14節


「大丈夫、大丈夫」。
これは、今日の人々が互いに言い交わす気休めのことばです。

主イエスのものとされた人々も、そんなふうに言うことができるでしょうか。
もちろんです。
ただ彼らは、世の人々とは全く違う場面でそう言うのです。

世の「大丈夫」は、悲しみや苦しみが襲いかかると、たちまち姿を消します。
気休めは何の役にも立ちません。
しかしイエスのものとされた人々は、まさにそのようなときにこそ互いに「大丈夫」と言いあえるのです。

「冬が去れば、夏はもうそこに。
苦しみがいかに大きくとも、待つ者に喜びがある。
すべてに神の時があり、神の愛は永遠に」。

キリスト者が「大丈夫」と言うことができるのは、「やみの中にすわっていても、主が私の光であるから」です。

「大丈夫」。
他方、世の子どもたちが互いにそう呼びかけあっても、キリスト者たちにはそう言うことのできない場合があります。
罪が力を増して、人々の良心が損なわれるときです。

世は言います。
「大丈夫。良心なんか、かまうものか。
神の命令だと。古くさいよ。
ともかく大丈夫だから」。

そのとき、キリスト者は「大丈夫ではない」と言います。
イエスが死なれたのは、私たちが今と同じであり続けるためではなく、主が聖霊によって新しい人を造ろうとなさるためです。

それゆえ、みことばは「大丈夫ではない。
聖められることを追い求めなさい。
聖くなければだれも主を見ることができません」と語るのです。

確かに私たちは、キリストの恵みによって救われることを願い求めます。
ところが主の恵みはそこにとどまらず、私たちの全生涯にまで浸透しようとするのです。
そしてイエスはついに完全に私たちの主となるおつもりです。

私たちはこれを真剣に受け止めるべきです。

主よ。
常に正しく考え、正しく立つよう、私たちをお助けください。アーメン

God Bless You!!


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