2018年10月30日(火)の手紙

2018年10月30日(火)


『…御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき…。』ガラテヤ人への手紙1章16節


今も生きておられる神が、私たちを憐んで、私たちの暗い心に光を投じ、御子である主イエス・キリストを私たちのうちに啓示してくださる。
これこそが私たちに起こりうる最大の経験です。

その経験がないままに、人は何時間でも「キリスト教世界」について論じ合うことはできます。
が、それは「霧の中を、棒切れを持ってまさぐり歩くようなものです。

さて神がひとたび御子を私たちに啓示されるならば、いったいどういうことになるでしょうか。
人はたちまち福音の中心を悟って、それがいかに必要で、また、いかにすばらしいことであるかを理解するのです。

ルターは、この福音の中心を短い文章で見事に言い表しました。
「キリストは天から下り、神について、その恵み、憐みをくまなく語られた。
すなわち御父が私たちの罪を赦されたことを語られた。

そしてその後、キリストは再び神のみもとにのぼり、私たちのことを神によく言ってくださった。
父よ、もう彼らには罪はありません。
わたしがそれらを背負って、十字架の上で処分しました、と」。

これこそが福音の中心です。

神が御子を私たちのうちに啓示なさらない限り、すべては私たちにとって理解不能です。まるで私たちは太陽の射し込まない地下牢に入れられた囚人のようです。

しかし、神が私たちのうちに働きかけてくださるとき、それは地下牢の扉が突然に開くようなものです。
さんさんたる真昼の光に囚人は驚きます。
神が御子を私たちのうちに啓示されるとき、まさに同じことが起こるのです。

主よ。
御子を知るために、どうぞ私たちの耳、目、心を開いてください。アーメン

God Bless You!!


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