2018年10月28日(日)の手紙

2018年10月28日(日)


『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』コリント人への第一の手紙1章18節


「力」ということばを聞くと、今日では、何馬力であるとか、自動車、原子力とかを想像します。
が、イエス・キリストの十字架に力があると聞くならば、まずだれもが首をかしげるのです。

そこで、ひとつの事件が理解を助けるでしょう。

1942年4月11日、若き学生ミヒャエル・キツェルマンがロシアの町オレールの収容所に入れられていました。
彼は楽しい学窓から戦争に駆り出され、果てしない道を行進させられたのでした。
激しい戦闘をも経験しました。

ところがある日、彼は町の広場でユダヤ人の絞殺死体を目撃します。
それについて、彼は黙っていることはできなかったのです。
そして、そのために彼は、死刑を言い渡されて、捕らわれの身となったのでした。

4月11日に彼は一通の手紙を書き、それが私たちのところに届きました。
「…1番つらいのは早朝です。
毎朝目が覚めると、悲運の恐ろしさが、まるで岩のように私を押しつぶします。
…私は絶望して拠り所を求めます。
そして決まったように、わが救い主の十字架によじのぼり、慰めと力とを見いだすのです…」。

今日の人々は、首を横に振ります。
イエスの十字架など、もうどこにもない。
どうして1942年に、そいつによじのぼることができたのだ。

しかし、若者は間違ってはいませんでした。
十字架は神の永遠のみわざです。
それは私たちのただ中に今も立ち続けています。

そして人々が人生の諸問題に行き詰まる時、良心が安らぎを失って、赦しを叫び求める時、平安のない心が慰めと助けとを求める時、不幸が神に問いかける時、彼らは、イエスの十字架の中にすべてを見いだすことができるのです。

ここに、私たちのための神の力があるからです。

主よ。
あなたの死によって、私はいのちを得る者とされました。
感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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