2018年10月25日(木)の手紙

2018年10月25日(木)


『人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』ローマ人への手紙3章28節


1915年、血気盛んな若者の私は兵士でした。
当時は服装の規則がうるさくて、街などで上官に出会うと、いつも大慌てでした。

まず反射的に帽子をつかんで、かぶり直し、あごひもを引き、コートのボタンがかかっているかを素早く調べました。

人々と話をしていて、神の御名が口にされる瞬間、私はいつもそれを思い出します。
人々は突然に初年兵のようにこわばり、そして言うのです。
「私の生活はきちんとしていますよ」と。

彼らは、時々は教会にも行くのだと力説します。
数々の善行をしたのだと話してくれます。
つまりは、神の前に身構えるのです。

さて聖書はそれに対して言います。
「なんと滑稽な空騒ぎではないか。
神には私たちの毎日がそのままお見通しだというのに」。

そしてまた、「安心して自分に絶望しなさい。
いずれにしても、私たちは神の前には立てない者たちです。
神の前に身構えるのはやめなさい。
あなたが失われた者であることを、神はずっと以前からご承知なのだから」とも言うのです。

「自分に絶望しなさい」。
これは難しいことです。
が、もしも真理を尊ぶならば、御子の十字架を見上げることはなんでもないことです。
そして、そうするならば、私たちを神の前に「義とする」のはこの方なのだ、と悟ることができます。

妥協のない聖なる神に対して、私たち自身が何者であり、何をしたか、ということをもって取り入ろうとしても、それは無駄なことです。
が、もしも…、聖書の表現どおり…、イエス・キリストの正義の外套をまとうならば、私たちは神に喜ばれます。

主よ。
私の目を開き、自分自身を見させ、あなたの救いを悟らせてください。アーメン

God Bless You!!


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