2018年10月24日(水)
『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。』ローマ人への手紙3章25節
主は、旧約の民をエジプトから救うため、エジプトに幾つもの災いを下すという方法を取らなければなりませんでした。
最も恐ろしい最後の災いは、一夜にしてエジプト人のすべての初子を殺すというものでした。
なんと残酷なことだったでしょうか。
イスラエル人は勝ち誇ってエジプトを出ました。
が、主は、「お前たちの心もエジプト人の心と全く同じだ。
だから、お前たちの初子もまたわたしのものである」と言われます。
この同じ理由で、千年以上も後に、イエスも宮に連れて行かれました。
マリヤが聖なる神の御前に幼子を差し出して、「これはあなたのものです」と言うのが聞こえるようです。
このできごとを「イエスの奉献」と呼びます。
人間がイエスを彼らの神に差し出すのです。
そして、これをもってイエスの地上の生涯は始まりました。
しかし歴史は逆転します。
神がイエスを人間に差し出してくださったからです。
みことばは言います。
「神はキリスト・イエスを、…差し出してくださった」。
これはイエスの十字架をさしています。
十字架の上で、神は御子を、罪人の救い主、救いの源、祭司、なだめの供え物として、私たち人間に差し出してくださったのです。
そして神は私たちに向かって言われます。
「彼はあなたがたのものです」と。
信仰をもってこの事実を認める人は、今度は(別の意味で)マリヤと同じことをします。
すなわち、その人は霊において救い主を腕に抱き、神の前に差し出して言います。
「聖なる神よ。罪人なる私を、ただイエスにあってご覧ください。
私とあなたとの間に、御子を置いてください。
そうすれば、私はあなたの和解をいただけます」。
主よ。
私たちにも救いを分かち与えてください。アーメン
God Bless You!!
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