2018年1月9日(火)の手紙

2018年1月9日(火)


『そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。』マタイの福音書2章11節


なんと麗しい瞬間であったことでしょうか。
深い静寂が部屋を包みました。
見えないものを見る、開かれた目を持つ人であれば、この幼子がやがて成人して、最初の弟子たちに言うのを見抜いたことでしょう。
「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

博士たちは賢明で学問のある人々でした。
貧しい夫婦の、このか弱い幼子の姿をもって、天地の創造主なる方が地上に宿ったと認めるのには、おそらく彼らの知性も抵抗したことでしょう。

しかし、その彼らが幼子を礼拝する光景のすばらしさは、神の臨在の前には知性も沈黙せざるを得ない、という点にあります。
そこでは、すべての疑問がしずめられます。
そして幾千もの痛む心が、ひとつの声に溶け合って叫びます。
「神が我らを憎まれるだろうか。
何にもまして愛する御子を我らに与えたその方が。
我らを悩みより守るため、ひとり子を栄光の座から地上に送ったその神が」。

20世紀のかたくなな民である私たちも、東方の博士たちとともにひざまずいて、こう申し上げる以外に、平安のない心から解放される道はありません。
「喜びをもってあなたを見上げます。
自分を見て満足しません。
もはや自分では何もできないので、みもとにとどまります」。

私たちの時代の人アウグスト・エーベルトの、次のことばで祈りましょう。
「博士たちを、あなたの星は導きました。
博士たちは、その黄金を降誕の祝いとしました。
私も御前にこうべを垂れて、聖なる幼子よ、あなたを拝します。
あなたを包む神の輝き。
その光に心を開き、こう祈ります。
わが性質に浸透してください。
わが根源、目的、聖き中心となってください」。アーメン

God Bless You!!


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