2018年1月8日(月)の手紙

2018年1月8日(月)


『そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。』マタイの福音書2章11節


この場面は幾たびも絵の題材になりました。
壮麗な装いの男たちが、たわいもない幼子の前にぬかずくさまは、おそらく画家たちにも謎めいていて、心惹かれるものがあったのでしょう。
確かにこれは一考に値する興味ある事実です。

「ひれ伏して拝んだ」。
言い換えれば、この幼子のうちに神性を認めたということです。
彼らは幼子のうちに神の現れを見たのです。
何という悟りでしょうか。

のちに弟子ペテロが、主イエスを「生ける神の御子」と呼んだとき、主は言われました。
「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と。

イエスが神のもとからこの世界に来られたことを、私たちが認めるためには、聖霊が私たちの心に働いてくださらなければなりません。

博士たちはすこぶる宗教的な世界の人々でした。
すべての宗教は、人が神に近づこうとする点で、互いに似通っています。
そして、その方法では神にまで到達した人がいないという点でも、すべての宗教は似ているのです。

博士たちは悟りました。
この方こそは、すべての宗教が尋ね求めた窮極そのものだと。
今や神が向こう側から私たちのもとへ来てくださり、私たちを尋ね求めてくださっているのだと。
それさえわかれば、人は今日でも、ひざまずいて言います。
「イエスにおいて現された神の御力を、伏し拝みます」と。

博士たちは、自分たちが少数者であることによって心を乱しませんでした。
知らせを聞いたエルサレムの人々の中に、博士たちと一緒に行く者がだれひとりいなかったのは、痛ましいことです。
しかし、それさえも、博士たちがイエスを伏し拝むのを何ら妨げませんでした。

主よ。
あなたとその救いを認める数少ない人々の中に、私たちを加えてください。アーメン

God Bless You!!


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