2018年1月4日(木)の手紙

2018年1月4日(木)


『朝が夜から遠く離れているように、主は私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。』詩篇103篇12節


この詩の作者は一つの勇壮な場面を描いています。
朝と夜とは二人の屈強な走者であり、彼らは休まず同じ円軌道の上を追いかけ合いつつ、互いに相手をつかまえられない。
そこから詩人は一つの比喩を引き出しました。
「夜が朝をつかまえられないように、私の罪は私に追いつけない。
神が赦されたからだ」。

なんと雄大な描写で、罪の赦しをたたえることでしょうか。
神はまさにこの赦しを、十字架のイエスによって私たちに示されました。

さて、この詩篇の背後に広がる暗やみにも目を留めるべきです。
すなわち、人はだれでも罪の赦しがなければ、その罪に一日中追いかけられるということです。

創世記にひとりの若者のことが書いてあります。兄たちが彼を奴隷にして売り飛ばしたのです。
それから数十年。

すっかり忘れられたと思うころに、悪らつな兄たちに災いがふりかかると、なかのひとりが、ついにみんなの思いを口にします。
「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。」

彼らの罪はやはり、彼らのあとを追っていたのです。
人は長らく、自分の罪から逃げることができるでしょう。
罪はないと言い張ることもできるでしょう。
が、神は正しく聖い方です。
私たちの罪が私たちを追いかけるのを見て、神は悲しまれます。
そのままで、ついに最後のさばきの日が来てしまえば……。

その日には、言わなければなりません。
「私は罰を受けている。
神の審判を受けなければならない私を、今となってはだれが助けられようか」と。

けれども詩人はそうは言いません。
「朝が夜から遠く離れているように、神は私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」と。
私と私の罪との間に、キリストの十字架が立つからです。

主よ。
私たちに赦しを見いださせてください。アーメン

God Bless You!!


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