2018年1月23日(火)の手紙

2018年1月23日(火)


『ぶどう酒がありません。』ヨハネによる福音書2章3節


こんなことをさえも、救い主に訴えることができるとは。
日常のさまざまな悩みと格闘せざるを得ない中で、私たちは知る必要があります。
救い主にこんなことをさえ訴えてもかまわないのだということを。

小さな村カナに婚礼があって、貧しい人々のぶどう酒が途中でなくなってしまいました。
こんな小さな困惑が、神の御子の関心を引き得るのでしょうか。

そうです。
主はこれを心に受け止めて、助けの手を差し伸べてくださいました。
この麗しい出来事は驚嘆に値するものです。
神の御子が今、この世のただ中へとご自分の道を踏み出されるからです。

主は全世界の咎を取り去ろうとなさいます。
死を克服しようとなさいます。
そして、名もなき人々の婚宴を困惑から救い出すことによって、主はこの道を歩み出されたのです。

イエスが日常のささいな諸問題にわたる救い主であることを、これほどに明確に知り得る箇所はほかにありません。
人生の大部分が小さな諸問題で成り立っていることを、私たちは安心して認めてよいのです。

いつもは孤高の道を行く人であっても、ひとたび歯の痛みにおそわれるなら、手ひどく地面に叩きつけられます。
ああ、なんという哀れなる日々の苦しみでしょうか。

でも、人はそれを救い主に訴えてもよいのです。
何という慰めでしょうか。

昔、子どもたちのひとりがクリスマスのプレゼントに目覚まし時計を希望しました。
願いどおりの時計をもらうと、彼女は踊り上がって喜びました。
ところが突然その時計が止まってしまいます。
子どもは涙をいっぱいためて、私のところへそれを持って来ました。
故障でした。
子どもが時計を差し出したときのしぐさを忘れません。
苦しみの中でも絶対の信頼をもって私の顔を見上げたのです。

私たちも救い主に、私たちの「こわれた時計」「空のぶどう酒びん」を差し出すことができます。

主イエスよ。
そうすることができるので感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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