2018年1月20日(土)の手紙

2018年1月20日(土)


『イエスは…人に愛された。』ルカによる福音書2章52節


この箇所を読むとき、私は驚きのあまり口をきくことさえできません。
「イエスにあって神の恵みを見いだした私たちは、本当にしあわせです」。
多くの人々がそう告白します。

イエスにあって輝かしい神の恵みが示されたということは、まさに「うれしい知らせ」だからです。

しかし、きょうの御言葉では、すべてが逆になります。
「人々がイエスにあって恵みを…」ではなく、「彼、すなわち神の御子イエスが、人々にあって恵みを見いだした」というのです。

驚くべきことです。
神への冒?ではないでしょうか。
いったいイエス・キリストは、人々から優しくされる必要があるのでしょうか。
しかも人々が実際にイエスに与えたものは、恵みからはほど遠いものではなかったでしょうか。
人々は、ついには容赦なく主を十字架につけたのです。
そして今日でもなお、人は根本的に救い主に対してまったく無慈悲でいるのです。

だとすると、「イエスは人に愛された」。
これはどういうことなのですか。

神の御子はご自分をいと小さきものとされたので、私たちの愛を請い求め、それを見いだして喜んだ、というのですか。
身を低くして仕える者の姿をとったのだから、ご自分を優しく迎えるようにと、私たちに願い求めたのでしょうか。

いいえ。
主には、それは不必要です。
主は私たちを必要となさいません。
しかし、私たちを愛するので、そして私たちがどれほど主を必要とする者であるかをご存じなので、それで主は、私たちが愛をもって主を迎えることを、お求めになるのです。

きょうの御言葉の中に、神の謙遜の秘義とイエスの愛とを認めるべきです。
「この方を受け入れた人々… には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。

主よ。
あなたの謙遜を軽んぜず、み前にぬかずきます。アーメン

God Bless You!!


a:175 t:1 y:0