2018年1月17日(水)の手紙

2018年1月17日(水)


『イエスは知恵が増し加わり…』ルカによる福音書2章52節


この程度の記述であれば、哲学者たちの伝記にも書くことができるでしょう。
しかし、問題はイエスに増し加わる知恵がどんなものであったかということです。
知恵の教師は、合理一辺倒の、論じさえすればよい知恵。
そして(ここが重要ですが)人々の生き方を攻撃しない知恵を教えていさえすれば、大いに愛されるものです。

さてイエスに増し加わった知恵とは、どんなものであったのでしょうか。
聖書は語ります。
…あるとき、神の知恵が啓示された。
驚くべきことに、この知恵は同時に力でもある。
さらに最も特異な点は、力でもある神のこの知恵とは、実はイエス・キリストの十字架であること。
それゆえに聖書は、「ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
…キリストは神の力、神の知恵なのです」と言うのです。

これは大切な御言葉です。
しかし、今はただ「イエスの十字架こそは神の知恵」だという点だけを、心に留めましょう。

「イエスは知恵が増し加わり…」。
さてこれはどういうことでしょうか。
主は十字架以外の何をも望まず、日増しに、ご自分のいのちを、私たちの救いのために与えることを、いよいよはっきりと決断するようになられました。

救い主にとって十字架がますます重大になっていきます。
私たちにも、ますます重大になるでしょうか。
ここに神の知恵があるのであれば、私たちもその知恵は増し加わるべきではありませんか。
たとい世がこの十字架を愚かと見ても、です。

ある歌にあります。
「世の賢者には十字架が醜聞、愚行と映るとも、いかなる嘲笑の極みにも、この私には神の知恵」。

神の支配のうちに生きようと願うならば、イエスの十字架こそが、私たちの人生の知恵そのものでなければなりません。

主よ。
私を成長させて、神の知恵をますます悟らせてください。アーメン

God Bless You!!


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