2018年1月1日(月)の手紙

2018年1月1日(月)


『主のあわれみは尽きない……。それは朝ごとに新しい。』哀歌3章22節、23節


眠っている早朝の家々に、足早の配達人が刷りたての新聞を投げ込んで行きます。
やがて人々は起き出して、目新しいニュースはないかと、急いで新聞を開きます。

きょうのみことばは言います。
そのようなニュース、そのような新しさは大切ではない。
真に新しいことはただ一つ。
朝ごとにそれを熱心に受け取れと。
それとはほかでもない神の憐みです。
「主のあわれみは尽きない……。それは朝ごとに新しい」。

朝ごとのニュースの大半は楽しいものではなく、おかげで丸一日、気分を台なしにされることもあります。
が、朝露にぬれた主の憐れみ、これは私たちを終日、喜びに満たし、灰色の日々を明るく輝かせます。

しかし時には私たちの心が、この憐みを見るに足るだけ充分に備わっていないこともあります。
「私は…… 朝ごとに責められた」(詩篇73篇14節)という詩人のように、苦々しい思いを抱くときもあります。
病人や、心に重荷のある人や、不平を抱く人は、「神の憐れみどころか、朝ごとに新しいのは、不幸ばかりだ。
それだけだ」と溜息をつくかもしれません。

本当にそれだけですか。
いいえ。
全世界が悲しみに沈んでも、神の憐みはなお、朝ごとに新しいのです。
信じない人はゴルゴタの十字架を見上げなさい。
パウロはこの十字架について、こう言いました。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8章32節)

十字架を見上げる人は、そこに神の憐みの輝きを認めます。

主よ。
あなたの大いなる憐みをはっきりと見る目、それを朝ごとに私にお与えください。アーメン

God Bless You!!

a:202 t:1 y:0