2016年10月23日(日)の手紙

2016年10月23日(日)

『イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。』マタイによる福音書4章19節


ユダヤの男子は、たいてい13歳までユダヤの学校に通う。
その後、少数の優秀な者だけが選ばれ、その地域の「ラビ」と呼ばれる先生の弟子になって、つき従って行く。
彼らは、ラビの行くところに行き、ラビの食べる物を食べ、その生活を見習った。

選ばれなかった少年達は、大工や漁師、羊飼いなどの仕事についた。

シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネは、ラビの弟子になるための合格ラインに達しなかった人だ。
ラビのもとには行けず、家業の漁業に明け暮れていた。

ラビが採用しなかった人達を、イエス様が探し出されたというのは興味深い事だ。
特別に優秀な人達ではなく、ごく普通の漁師を「わたしについてきなさい」と招かれた。
何という栄誉だろう。
彼らは、ラビの中のラビの弟子となったのだ。

イエス様は、同じ栄誉を私達にも与えてくださる。
私達が優秀だからではなく、イエス様が普通の人を必要としておられるからだ。
普通の人が、イエス様を模範として生きて行けるようにしてくださった。
普通の人や落ちこぼれでも、イエス様について行けるようにしてくださった

God Bless You!!

『今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。』コリント人への第二の手紙7章9節


パウロは二回目の手紙で、コリントの人々が悲しみの違いを知っていたと褒めている。

初めの手紙は、罪の問題を取り上げた辛辣なもので、コリントの人々の間に悲しみを生じさせたけれど、パウロはそれを喜んだ。

なぜだろうか。
彼らの悲しみが、御心にそった悲しみで、罪に対する純粋な自責の念を生み出したからだ。

確かに人々は罪を犯した事で悩み苦しむけれど、悲しむだけでまったく行動しなかったのではない。
彼らは悔い改め、罪を離れて心を入れ替え、神に立ち返った。
また、そうした事によって、罪から解放された。

悔い改めは、人の力ではできないものだ。
それは、神が与えてくださる。
聖霊に促されて、人は悔い改める。

悔い改めとは罪を憎み、罪から離れる事なのだから。

God Bless You!!

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