2012年1月17日(火)

2012年1月17日(火)


『主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と』詩編12篇5節


この世に安全な場所があるだろうか。

核シェルターか。
それを持っているのはわずかな人達だけだろう。
DVで命の危機を感じている人が逃れる場所がある。
しかし、その場所も一定期間が過ぎると出なければならない。
それは束の間の安全な場所でしかない。

でも、本当に安全な場所、それも永遠の隠れ家となるお方がいる。
それはイエス・キリストご自身だ。

イエス様ご自身は、立ち上がって、虐待された者、貧しい者、困っている者を守られる。
このような人達は、神の救いを待ち望んでいるからだ。

私達は、まだまだ余裕があるみたいだ。
祈る時間がない。
聖書を読む気分じゃない。
教会は楽しくない。
ずいぶん余裕がある。

カナンの女性は、イエス様に犬扱いされたけれど、引き下がらなかった。
彼女にはイエス様しかいなかったからだ。
私達は、自分の思い通りにならないとふくれっつらになり、文句を言う。
神を自分の召使いとでも思っているのだろうか。

私達が祈らないのは余裕があるからだ。
祈らなくても毎日の生活に何ら支障はない。
聖書を読まなくても毎日食べる物はある。
神にすがらなくても当たり前に学校に行き、職場に行き、地域社会で生活をしている。
食事の前の祈りをする時に、「神よ、何とかこの食事を食べる事ができるように力を与えて下さい」とは祈らない。
自分で食べれる事を知っているからだ。
人は、自分でできる事は祈らない。

神が本当に喜ばれるのは、神を必要とせずに毎日を過ごしている勘違いした人ではなく、苦しい状況の中でも、神を求めながら、神にすがりながら生きる者を神は喜ばれるのだ。

あなたは今日、少し時間をとって、私はどちらの道に生きているのかを考えてみよう。
そして神に喜ばれる道に歩もう。

God Bless You!!


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