2011年11月25日(金)
『目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか』ローマ人への手紙8章24節
信仰とは望み見る事だと思う。
実際に見えない事を信じる。
それには信仰が必要なのだ。
ある人は、祈っても聞かれていると感じない人がいる。
でも大切な事は、祈ったならばかなえられたと信じる事だ。
礼拝を捧げている時に、神の隣在を感じない時もあるだろう。
でも大切な事は、主の名によって集うところに主も共におられる事を信じる事だ。
私達の信仰は「感覚」ではない。
勿論、「感覚」を否定しているわけではない。
でも「感覚」にまさるものがある。それは「信じる事」だ。
もし、私達の信仰生活のすべてに「感じる事」が必要だというなら、もはや「信じる事」は必要ではなくなる。
なぜなら、感じない事はすべて信じるに値しない事になるからだ。
イエス様が共におられる事を感じる事ができないからといって、主が共におられないわけじゃない。
主は私達と共におられる。
私達の祈りをイエス様が聞いておられるように感じなくても、主が聞いておられないわけじゃない。
主は私達の祈りを聞いておられる。
見えないものを信じる事が「信仰」だと言うなら、感じないものを信じる事も「信仰」と言うのではないだろうか。
私達の信仰生活の土台は、「感覚」ではなく「信仰」なのだ。
God Bless You!!
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